ウィーン分離派とは
19世紀末、保守的な芸術家協会に不満をもった芸術家が結成した、革新派のグループ。
ゼツェッションとはドイツ語で「分離」の意味。
表現の自由と規律、2つの矛盾する価値観が広がっていた時代。
何をめざしたか
過去の様式からの脱却
自由で国際的な芸術表現をめざした
当時のウィーンでは、保守的なウィーン造形芸術組合がクンストラーハウス(作品を展示する場)を支配していて、新しい芸術は認められなかった。
そこから分離、脱退したグスタフ・クリムトを中心に、不満を持っていた芸術家が立ち上がってムーブメントを起こした。
ドイツ語圏の他の都市、ミュンヘン、ベルリンでも同じ運動があったが、その中でも最も強い影響力を持っていたのが「ウィーン分離派」
ドイツの批評家であるウォルター・ベンヤミンは、ウィーン分離派の運動について、アートが産業の時代に飲み込まれている中で、作家の内面性を追求する最後の試みがあったのでないかと述べている。
ゼツェッション館の建立
1898年にゼツェッション館を建て、彼らの思想を建築に象徴させたことで、この運動を広くはやく認知させることに成功している。
ゼツェッション館では、同時代のヨーロッパの新しい芸術を紹介し、建築や装飾、絵画、工芸品などの垣根を超えて、芸術全体を統一することを目的にした。また、雑誌などのメディアもうまく利用して活動や作品を紹介した。
のちにクリムト、ヨゼフ・ホフマン、モーザー、オルブリッヒは国際的な総合芸術をめざす一派として、保守派と対立が起きたのでグループを脱退する。
運動期間はわずか8年と、短命に終わった。
ゼツェッション館
1898 オーストリア ウィーン
設計:ヨゼフ・マリア・オルブリヒ
via wikipedia
<芸術家のパトロン>
この時代の芸術を支援した人物として有名なのが、カール・ウィトゲンシュタイン。
彼は19世紀オーストリアの実業家。哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの父であり、製鉄事業で大きな成功を収めたので、オーストリア近代産業の父とも言われる。
親交があった人物は、初代会長のクリムト、ヨーゼフ・ホフマン、フェリックス・メンデルスゾーン、オーギュスト・ロダン、コロマン・モーザー、ハインリヒ・ハイネなど。
オルブリッヒが設計した、ゼツェッション館はウィトゲンシュタインの資金援助によって建てられたもので、彼は事業や芸術に対して、反伝統主義的な考えを持っていた。
カール・ウィトゲンシュタイン
1847-1913
オーストリアの実業家
ウィーン工房の設立 ,1903
1903年、ウィーン分離派のメンバーだったヨゼフ・ホフマンとモーザーは、パトロンの支援を受けて、新たにギルド組織をつくった。
アーツ・アンド・クラフツ運動のなかで、アシュビーが創設した「手工芸ギルド学校」をモデルにしている。同運動の影響を受けてはいるが、社会的思想はなくデザイン面に対する関心が強かった。
マッキントッシュや、のちの「アール・デコ」にも通じる、直線的、幾何学的なデザインが特徴で、住宅、インテリア、家具をはじめ、宝飾品からドレス、日用品、本の装幀など、さまざまな分野の工房を設け、トータルデザインを目標として活動した。
パトロンの事業が衰退するとともに、ウィーン工房も解散へ追い込まれた。
ウィーン工房のデザインは装飾を否定する建築家アドルフ・ロースから批判を受けた。
ヨーゼフ・ホフマン
1870-1956
オーストリアの建築家、デザイナー
プルカースドルフのサナトリウム
1904 オーストリア プルカースドルフ
設計:ヨーゼフ・ホフマン
via wikipedia
ストックレー邸
1905-1911 ベルギー ブリュッセル
設計:ヨーゼフ・ホフマン
© Ministere de la Region de Bruxelles-Capitale
壁画「生命の樹」
1862-1918 オーストリアの画家
作者:グスタフ・クリムト
via Haute Residence
建築分野の中心人物
オットー・ワーグナー
1841-1918
オーストリアの建築家、都市計画家
(ハプスブルク家、最後の王室建築家)
<近代建築をうながしたワーグナー>
世紀末のウィーンは、モダニズム建築をうながす上で建築史的に重要な役割を果たしたが、それを理論的に引っ張ったのがワーグナーだった。
1880年以降、ウィーンでは都市整備がすすめられていたが、そこに建てられた建築は歴史主義的なものが多く、やや時代遅れの風景がつくられたいた。その頃、各地方では新しい芸術運動も起こっており、若者たちは歴史主義を脱却した新しいスタイルの建築を求めた。
当初、ワーグナーは開発計画を通して古典主義的な建築を建てていたが、1894年にウィーンアカデミーの教授にすると近代的なイデオロギーにシフトした。
彼は「必要様式」を提言し、これからの近代建築は、合理主義・機能主義を重視するべきであると説いた。この理論は1896年「近代建築」にまとめられ、のちのモダニズム建築へつながる考えとなった。
ワーグナーは助手のオルブリッヒ、生徒のヨゼフ・ホフマンなど多くの才能ある人材を育て、彼らは「ワーグナーシューレ」と呼ばれる。
<ワーグナーの作品スタイルの変遷>
歴史主義→アール・ヌーヴォー(ウィーン分離派)→近代建築
ヴィラ・ワーグナーI(現:エルンスト・フックス美術館)
1886-88 オーストリア ウィーン
設計:オットー・ワーグナー
via wikipedia
カールスプラッツ駅
1899 オーストリア ウィーン
設計:オットー・ワーグナー
via wikipedia
鉄骨の骨組みに大理石パネルをはめ込んでいる。
マジョリカハウス
1899 オーストリア ウィーン
設計:オットー・ワーグナー
via wikipedia
シュタインホーフの聖レオポルド教会
1907 オーストリア ウィーン
設計:オットー・ワーグナー
via wikipedia
ウィーン郵便貯金局
1912 オーストリア ウィーン
設計:オットー・ワーグナー
via khanacademy
新素材(出納ホールの床・天井ガラス・スチール)と伝統的な材料(外壁の大理石をビスどめ)を融合させた傑作。
カール・マルクス・ホーフ
1930 オーストリア ウィーン
設計:カール・エーン(ワーグナーの弟子)
via wikipedia
ウィーン分離派を批判した男
<装飾は罪悪である Ornament and Crime ,1908>
アドルフ・ロースといえば「装飾は...」、というくらい一人歩きしている標語。
モダン建築を先進させるため、手工業的なウィーン分離派やウィーン工房に反対する立場をとったことからうまれた言い回し。
実際ロースの設計した建物の内部は装飾的な部分もあるし、表層のインテリア、デコラティブな装飾を、直接批判したわけではない。
アドルフ・ロース
1870-1933(63歳没)
オーストリアの建築家
1890 ドレスデン工科大学に入学
1893 叔父を頼りアメリカ各地に3年間滞在
1896 建築家を始める
1902 初婚
1903 ウィーンの自邸改装
1905 2度目の結婚
1906 アドルフ・ロース建築学校を設立
1908 「装飾と犯罪」
1916 兵役
1918 神経性胃炎で手術
1919 3度目の結婚
1922 パリへ移住
1928 ウィーンへ戻る、4度目の結婚 年少者に対する猥褻行為容疑で逮捕 執行猶予付き有罪判決
1931 神経症で入退院
1933 ウィーン郊外サナトリウムで死去
シュタイナー邸
1910 オーストリア ウィーン
設計:アドルフ・ロース
via wikipedia
<シュタイナー設計の建築>
ドイツの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーがデザインした建物。フランク・ロイド・ライト、ハンス・シャロウンらが訪問し、絶賛したといわれている。
第2ゲーテアヌム
1928開館 スイス バーゼル近郊 ドルナッハ
デザイン:ルドルフ・シュタイナー
via wikipedia
ロースハウス
1911 オーストリア ウィーン
設計:アドルフ・ロース
via wikipedia
トリスタン・ツァラ邸
1926 フランス パリ モンマルトル
設計:アドルフ・ロース
via wikipedia
ツァラから自宅の設計依頼を受けたロースは、ウィーンからパリへ移り住み、設計から現場管理までおこなった。
ツァラの家はシュルレアリストたちの会合の場としても使われ、多くの芸術家が出入りしていた。岡本太郎も訪問している。
<「ラウムプラン」の代表作、ミュラー邸>
「ラウムプラン」とは、ハコの外側ではなく、内側を主題にした設計手法。ロースが考案した。
3次元のハコの中で、目的に応じて水平垂直方向のサイズを自由に規定する。空間をボリュームとして扱うことで、空間同士が相互参照するなど、豊かな体験をうむことにつながる。
この設計スタイルがうまれた背景には、ロースが新築ではなく改築の計画を多く担当していたことにも由来する。
見る見られるの関係性を意識した空間づくり。
1930 チェコ プラハ
設計:アドルフ・ロース
by Rory Hyde
via SOCKS
<哲学者が設計した住宅>
ヴィトゲンシュタインが姉とその夫のために設計した邸宅。
はじめはポール・エンゲルマン(=アドルフ・ロースの弟子)によって設計されていたが、次第にヴィトゲンシュタイン自身が関与するようになって、最終的にヴィトゲンシュタインの建築と呼ばれるようになった。
ウィトゲンシュタインは、ロースのパトロンでもあった。
関連書籍
『世紀末ウィーン―政治と文化』,カール・E.ショースキー (著),1983
『装飾と犯罪―建築・文化論集』,アドルフ ロース (著),2011
『世界現代住宅全集 25 アドルフ・ロース ミュラー邸 モラー邸 (英語)』,二川 由夫 (著, 編集, 写真),2017
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