アーツ&クラフツ運動とは
1880年代、産業革命をいちはやく達成させたイギリスでおこったデザイン運動。
効率重視の資本主義社会を批判し、中世の工芸文化へ戻ろうとする動き。社会改革を目的とするムーブメント。
運動の波はイギリス国内だけでなく、同時代のヨーロッパ諸国、北米全域、東アジア、日本(民藝運動)にまで広がり、影響を与えた。
<産業革命がうんだ工業化への反発>
生産手段が手工業から機械工業へとうつり、大量生産が可能になると、美しいとは言えないただの量産品が世の中に氾濫し始めた。しだいに美術工芸の分野で、"職人による手仕事を見なおそう"という動きがおこりはじめる。
同時に、労働環境の変化によるさまざまな社会不安が蔓延し、この状況をどうにかしようと、社会改革に強い関心を持つ知識人があらわれ始める。そんな時代背景のなかでうまれたのがアーツ&クラフツ運動であり、それを率いたのがウィリアム・モリスだった。
何をめざしたか
中世の手工芸を復興させることよって「芸術」のあり方を改革すること
「万人のための芸術」をめざした
モリスはつくり手の満足感と使い手の満足感の両方を重視していた。
貴族の所有欲を満たすための美術品や、資本家の利益追求のために大量生産された粗悪品をきらい、人のためにつくられるものこそ真の「芸術」だという考えを持っていた。
作品は非常に手の込んだ品質の高いものではあったが、それ故にとても高価になってしまい、顧客は富裕層が中心となった。広く一般に普及することはなく、万人のための...という彼の理想は実現できなかった。
また、モリスの思想は機械生産を否定するものだったため、時代に逆行するかたちになり、モリスの死後、運動の勢いはおとろえていく。その後、機械生産を前提として受け入れ、新素材をうまく融合させながら芸術をつくりあげていく「アール・ヌーボー」へと時代は流れていった。
運動の指導者
ィリアム・モリス
1834-1896(満62歳没)
詩人、小説家、翻訳家、社会主義運動家
<モリスの背景>
モリスはオックスフォード大学の学生だったころ、機械文明を批判するジョン・ラスキン(美術評論家)の思想に強い影響を受けている。
幼い頃から教会堂建築や、中世の文学などに触れながら育ったモリスは、もともと聖職者を志していた。大学でも神学を専攻している。
自然に囲まれた環境でぬくもりのある工芸品が身近にある、そんな豊かな幼少期が彼の原風景となっている。
大学では同じ神学を学んでいた友人のエドワード・バーン=ジョーンズと出会い、彼も神学の道から芸術家の道へ転向している。二人の交友関係は生涯続いた。
中世を賛美し芸術理論を展開したジョン・ラスキン。その理論を実践したウィリアム・モリス。両者ともユートピア的思想を持っていた。
(ジョン・ラスキンは、ジョセフ・ターナーやラファエロ前派の画家たちのパトロンであり、ゴシック・リヴァイヴァルの理論的中心人物)
モリスが青年時代を過ごした家。(現在は博物館)
運動のきっかけとなったモリスの自邸
<モリスの新居「赤い家」>
モリスは結婚と同時に新居として「赤い家」を建てた。
彼は内装デザインを担当するが、新居に必要な家具や調度品を探しても自分が欲しいと思えるものがまったく見つからなかった。そこで既製品の購入はあきらめ、仲間の芸術家たちに頼んでつくってもらうことにする。この家の家具や室内装飾品はすべて、モリスとその友人たちによって制作された。
この体験がきっかけで自らデザイナーとなることを決意し、インテリアアイテムを製作・販売する場として、1861年「モリス・マーシャル・フォークナー商会」という会社を立ち上げる。
粗悪品に嫌気がさしていた上流階級のあいだで人気に火がつき、思想とともに広く認知されていった。
レッドハウス(モリス自邸)
1860 イギリス ケント
設計:フィリップ・ウェッブ
via wikipedia
作品 (Morris & Co.)
古建築保護協会(SPAB)の創設
モリスは1877年、中世の教会堂を保護することを目的に「古建築保護協会」を設立した。
教会堂の修復ブームが起きるなか、その工事が杜撰なものであることを批判し、原則として古い建築物はそのままの姿で残すべきだと主張した。
この主張の甲斐あって、きちんとした調査のもとに修復がおこなわれるようになった。現在にも通ずる、建築保存の重要さを意識させるきっかけとなった。モリスが残した重要な功績の一つとされている。
「アーツ・アンド・クラフツ中央学校」
熱心な運動家のひとりだったウィリアム・レサビーは、1894年、ロンドンに美術学校を設立し初代校長を務めた。
この学校はバウハウスのモデルとなった美術学校で、工芸教育のための工房が備えられていた。いままで主流だった徒弟制度ではなく、はじめてカリキュラムに基づいて美術教育をおこなった学校として知られている。
モリスの思想を具現化した建築
モリスの影響のもと、さまざまな分野でギルド(=中世の職人組合をモデルにしたもの)が組織され、手仕事による芸術作品がつくられた。モリスの思想を具現化する建築も建てられた。
サウス・パレードの自宅兼スタジオ
1894 ロンドン ベッドフォードパーク
設計:チャールズ・ヴォイジー
by Steve Cadman on Flickr
マンステッド・ウッド(ジーキル邸)
1896 イギリス ゴダルミング ヒース・レーン
設計:エドウィン・ラッチェンス
©︎ Munstead Wood
イングリッシュ・ガーデンのパイオニア、ガートルート・ジーキルの自邸。
ラッチェンスとジーキルは、30年以上建築と造園のコラボレーションを続けた間柄。
ディーナリー・ガーデン
1902 イギリス バークシャー
設計:エドウィン・ラッチェンス
庭園:ガートルード・ジーキル
from 20th Century World Architecturer
雑誌カントリー・ライフの創刊者、エドワード・ハドソンのウィーケンド・ハウスとして建てられた。
ハドソンは、ムンステッド・ウッドを見て彼に設計を依頼した。この後エドワード・ハドソンはラッチェンスの最大のパトロンとなる。
グラスゴー派
チャールズ・レニー・マッキントッシュ
1868-1928(満60歳没)
スコットランドの建築家、デザイナー、画家
<近代デザインへ影響を与えた芸術家グループ>
グラスゴー派とは、チャールズ・レニー・マッキントッシュを中心とした4人組の芸術家グループ。彼らはグラスゴー芸術大学での出会いをきっかけに、ともに活動するようになった。
マッキントッシュは、アーツ・アンド・クラフツ運動の思想に影響を受けながらも、地域特有の土着的なデザインスタイルをめざした。故郷のスコットランドの伝統、古代ケルト美術の造形美などが織り込まれている。
建築や家具のデザインは直線的で幾何学をつかったものが多く、のちに流行するモダンデザインへ影響を与えた。絵画などに見られる、人と植物を神秘的に描いた造形スタイルは「アール・ヌーボー」と通じている。
<アーツ・アンド・クラフツ運動からの批判>
1896年、彼らはアーツ・アンド・クラフツ展覧会に出品するが、主催者から「奇妙な装飾の病」と批判されてしまう。
一方、国際的な知名度をもっていた芸術雑誌「ステュディオ」は彼らに注目して連載特集をくみ、それを読んだ「ゼツェッション(ウィーン分離派)」はそのデザインを称賛した。
イギリス外の国、ウィーンで名声を得ることとなり、1900年に開催された第8回分離派展では、メンバーのヨゼフ・ホフマンたちとも交流している。
グラスゴー美術学校
1897-1909 スコットランド グラスゴー
設計:マッキントッシュ
Glasgow School of Art (before the fire). Image © Alan McAteer
グラスゴー美術学校 セオナ・リード・ビル
2014 スコットランド グラスゴー
設計:スティーブン・ホール
© Iwan Baan on archidaily
ヒルハウス
1903 スコットランド エディンバラ
設計:マッキントッシュ
© Copyright David P Howard
ウィロー・ティールームズ
1903 スコットランド グラスゴー
設計:マッキントッシュ
via wikipedia
関連書籍
『ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動の源流』,大内秀明,平凡社,2012
『ウィリアム・モリス - クラシカルで美しいパターンとデザイン』海野弘,パイインターナショナル; Bilingual版,2013
『世界現代住宅全集11 チャールズ・レニー・マッキントッシュ ヒル・ハウス ペーパーバッ』二川幸夫 (著),2011
『マッキントッシュ 建築家として・芸術家として』,ロバート・マックラウド(横山善正訳),鹿島出版会,1993 『図説 ケルトの歴史―文化・美術・神話をよむ (ふくろうの本)』鶴岡真弓(著),松村一男(著),河出書房新社,1999
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