アール・ヌーヴォーとは
アーツ&クラフツ運動や、当時流行したジャポニズムに刺激を受けて始まった、新しい芸術運動。
歴史主義や様式を引用したデザインから脱却し、新しい時代のデザインスタイルを求めるように起こった動き。
植物や虫など、自然をモチーフにしたデザインが特徴。
フランス語で
Art(芸術)+ Nouveau(新しい) = 「新しい芸術」の意味
パリをはじめとした大都市では、農村から都市へ大量に人々が流れ込み、空前の建設ラッシュが起こっていた。おもに公共建築は、新古典主義で建てられていたが、個人の住宅は自由にデザインできたため、そこから鉄やガラスを使った新しい芸術がうまれた。
また資本主義社会の浸透によって広告も増え、魅惑的なポスターが人々を惹きつけていた。
運動の波は西ヨーロッパ全土に広がったため、各国でさまさまな呼び方がされている。
また日本やケルトなど異文化とも交わりがあった。
<各国での呼び名>
・ドイツ、オーストリア 「ユーゲント・シュティール」
・スペイン 「モデルニスモ」
・アメリカ 「ティファニー・スタイル」
・イギリス 「モダン・スタイル」
・オランダ 「ネーウェ・クンスト」
・イタリア 「スティレ・リベルティ」
・スイス 「スティル・サパン」
<アール・ヌーヴォーが短命に終わった背景>
アール・ヌーヴォーは、1895から1905年頃のおよそ10年間続き、短命に終わった。
アーツ・アンド・クラフツ運動に影響は受けているが、大きな違いとして、社会問題や政治に対する思想がなかったことあげられる。本質のない、表面を覆うただただ装飾的なスタイル、とも言える。
さらに、20世紀の初めになると、ナショナリズムが台頭し、人々は "フランスらしさ" を求めるようになる。やがて、世界的に同じような様式美もったアール・ヌーヴォーは批判の対象となってしまった。
また、アール・ヌーヴォーのデザインはコストが高かったため、機械生産の時代とは相いれず、最終的には第一次世界大戦フランス、ドイツの対立のなかで消えてしまった。
きっかけとなったギャラリー
アール・ヌーヴォーという名は、1895年、パリの画商サミュエル・ビングが、「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)を開いたことをきっかけに認知されるようになった。
内装デザインは建築家のアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ。
ギャラリーでは、ロートレックのポスター、ルネ・ラリックの宝石細工、ティファニーやガレのガラスアート、日本美術の浮世絵などを取り扱い、アール・ヌーヴォーの発信地として繁盛した。1900年、パリ万博では自分のパビリオンでこれらの作品を紹介し、世界に広く知れ渡ることとなった。
フランスの美しき時代、ベル・エポック
19世紀の末から第一次世界大戦がはじまるまで、パリなどの大都市では文化と経済が発展し、人々は華やかな生活を送っていた。
消費社会がすすむと街には歓楽街のダンスホールやカフェなどができはじめた。画家のロートレックは「ムーラ・ンルージュ」に通いつめ、そこで働く踊り子たちを新しい表現感覚で描き、数多くのポスター原画を残している。
1900年開催の、第5回パリ万国博覧会はベル・エポックの一つの頂点といわれる。
アール・ヌーヴォーの作品
タッセル邸
1892-1893 ベルギー ブリュッセル
設計:ヴィクトール・オルタ
via wikipedia
Bloemenwerf house
1895 ベルギー ブリュッセル
設計:アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
© Henry van de Velde SABAM Belgium 2013
カステル・ベランジェの扉
1895 フランス パリ
設計:エクトール・ギマール
via wikipedia
蜻蛉の精,1898
作者:ルネ・ラリック
via wikipedia
メゾン・オルタ
1898-1901 ベルギーのサン=ジル
設計:ヴィクトール・オルタ
via wikipedia
ベルリンの葉巻店
1899 ドイツ ベルリン
内装:アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
ラヴィロット・ビルディング
1901 フランス パリ
設計:ジュール・ラヴィロット
via wikipedia
コーシー邸
1905 ベルギー ブリュッセル
設計:ポール・コーシー
via wikipedia
Métro ポルト・ドフィーヌ駅
1913 フランス パリ
設計:エクトール・ギマール
via wikipedia
関連書籍
『図説 アール・ヌーヴォー建築―華麗なる世紀末 (ふくろうの本)』,橋本文隆,河出書房新社,2007
『ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る―19世紀末から20世紀初頭の装飾芸術』角川SSコミュニケーションズ,堀本洋一,2009
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