バウハウスとは
1919年、ドイツのワイマールに創立した総合芸術学校。
分野は、工芸、写真、 デザイン、美術、建築。特に工芸教育に力を入れていた。
同時代のムーブメントである、ドイツ工作連盟、アーツ・アンド・クラフツ運動の思想的影響がある。
バウハウスとはドイツ語で「建築の家」という意味。教育理念にもあるように、総合芸術の終着点として「建築」に焦点を当てている。
<豪華な教師陣「マイスター」>
最盛期でも生徒数は200人程度と、それほど規模は大きくならなかったが、「マイスター」と呼ばれる教師陣に著名人が多かったことから、後世に大きな影響を与えている。
創立時におこなわれた「バウハウス宣言」
当時としては超モダンなファイニンガーの版画「社会主義の大聖堂」が表紙に使われた。
<マニフェストの要点3つ>
・総ての造形活動の最終目的は「建築」である
・建築家、彫刻家、画家は手工業に回帰しなければならない
・芸術家と創り手とが一体であらねばならない
バウハウスの究極のゴールは、いかに遠くとも、芸術の総合作品 ー 建築 ー である。
そこでは構造と装飾の間にいかなる壁もない。バウハウス宣言
何をめざしたか
アートとテクノロジーの統合
産業革命による工業化は、商品の品質低下をまねき、さらには生活の質をさげるというひどい状況をつくりだしてしまった。大量生産による粗悪品が流通する時代となり、芸術家たちは疑問を持ち始める。
彼らは自分たちにできるのは、職人の手作業から技術を学ぶことで、そこを出発点にして新しい創作物をつくることだと考えた。工業化に対するゆり戻しで、原始的な物づくりが求められた。
バウハウスの思想的な時代区分は研究者によって諸説あるとされる。バウハウスの内外ではいつも対立する考え方が渦を巻き、それによって多様性がうまれていた。
バウハウスの前身をつくった建築家
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
1863-1957
ベルギーの建築家
<ドイツからの召喚>
バウハウスの立ち上げはグロピウスだが、前身をつくったのはアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ。
1901年、ヴェルデはドイツのザクセン大公から芸術顧問として同国に招かれた。
1902年、彼は私設の「工芸ゼミナール」を設立し、その後1906年「大公立工芸学校」設立のタイミングで校長になった。その校舎は彼の設計。校長退任後はグロピウスに引き継ぎ、同校はバウハウスへと発展していった。
<バウハウス設立までの流れ>
1901 ザクセン大公から芸術顧問に招かれドイツに移り住む
1902 バウハウスの前身「工芸ゼミナール」設立
1906 ゼミナールを発展させ大公立工芸学校を設立し、自ら校長に就任自分で設計した校舎が完成する
1915 WW1のため、工芸学校の後継者をグロピウスに託してドイツを去る
1919 工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立、ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用
3人の歴代校長
<初代>ヴァルター・グロピウス
1883-1969(満86歳没)
ドイツの建築家
「工業大量生産」を理念にしていたペーター・ベーレンスのもとから独立した人物。
ベーレンスの事務所でミースと出会っている。退所後は、同じ事務所の同僚だったアドルフ・マイヤーとともに共同事務所を設立し、彼らの記念碑的作品となる「ファグス靴型工場」の設計をおこなった。その建物はバウハウス デッサウ校を予感させるものだった。
グロピウスは第一次世界大戦で従軍し、同時期に離婚した妻アルマとの間に私生活上の問題を抱えながら、バウハウス設立に奔走した。身体的な理由から製図やスケッチを苦手としていた。
<2代目>ハンネス・マイヤー
1889-1954
スイス バーゼル出身の建築家、都市計画家、建築教育者
「世界内に存在する全事物は、函数(機能×経済)の産物である」彼の言葉から分かるように、徹底した機能主義者。生活や機能性からかけ離れた造形を嫌う。
形の呼称は「美」に代わって「形成」にかわり、グロピウス時代には中心でなかった建築教育を重視した。経営でははじめて黒字を出し、バウハウスの歴史のなかでも隆盛期に校長をつとめた。熱心な共産主義者で、ナチスなど右翼勢力から敵視されていた。
<3代目>ミース・ファン・デル・ローエ
1886-1969(満83歳没)
ドイツ出身の建築家
左翼運動がらみのトラブルで解任されたマイアーの後任で、不況な時代の改革を任された。
(1929NY大恐慌 1930失業者400万人)
ナチスの弾圧を受け、アメリカへ亡命する。
校舎の引越し
ヴァイマール校 ,1919-1925
ドイツ ヴァイマール
設計:アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
© Thomas Tritschler Architekt & Innenarchitekt
デッサウ校 ,1925-1932
ドイツ デッサウ
設計:ヴァルター・グロピウス
Stiftung Bauhaus Dessau/ Foto: Yvonne Tenschert, 2011, Stiftung Bauhaus Dessau
ベルリン ,1933解散
ドイツ ベルリン
設計:ヴァルター・グロピウス
via Inexhibit
ナチによる閉鎖要求
バウハウスはナチスの弾圧によって閉鎖せざる終えなくなった。
社会に対して大きな影響力をもつふたつの共同体、ナチスとバウハウスは、互いに干渉し合う存在でもあり、芸術と機械化の統合を掲げたバウハウスは、その理念をナチスに利用され、政治的な宣伝効果の材料になることもあった。
ナチスは1937年「退廃芸術」として、当時流行していたさまざまな美術運動を批判している。批判することで、自分たちの存在を浮き上がらせることに成功したともいえる。
<ナチスが批判した芸術運動>
ナチスが取り締まった芸術運動の特徴は
・表現主義 「橋」派、「青騎士」派など
・ダダイズム
・バウハウス
・新即物主義の一部
・その他 シャガール、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソ、ムンクなど
バウハウスの作品
ゾマーフェルト邸
1921 ドイツ ベルリン ダーレム
設計:ウォルター・グロピウス、アドルフ・マイヤー
© Bauhaus-Archiv Berlin
「ワシリー・チェア」は世界で初めてスチールパイプを曲げてデザインされた椅子。
作者のマルセル・ブロイヤーは、バウハウスで学び、後に同校の教師(マイスター)となった。バウハウスで親交の深かった抽象画家のワシリー・カンディスキーがこの作品を高く評価したことからこの名がつけられた。
色彩論の著者であるヨハネス・イッテンは、1919年グロピウスに招かれバウハウスのマイスターになり、予備課程を担当する。バウハウスを特徴づける教育システム、「予備教育課程」の発案者ともいわれる。
東洋的神秘思想に傾倒し、のちにグロピウスと教育理念が合わず、1923年に解雇されてしまう。根底には西洋文明に対する批判があったとされる。
フーツラは、バウハウスの非常勤講師だったパウル・レナーによって設計された。ラテン文字のサンセリフ体書体で、ラテン語で"未来”の意味。
ルイ・ヴィトン、FedEx、Hulu、Volkswagenなど、今でも多くの企業のロゴに使われている。
オスカー・シュレンマーは、ドイツの画家、彫刻家。1923年、バウハウスシアターワークショップ(舞台工房)の造形主任者として雇われた。バウハウスの舞台「トリアディック・バレー」をプロデュースし、新しいダンスのカタチを開拓した。きゃりーぱみゅぱみゅの世界観にも影響がみてとれる。
ライト・アート。光による空間表現のはじまり。
関連書籍
『ビフォー ザ バウハウス』,ジョン・V. マシュイカ (著), John V. Maciuika (原著), 田所 辰之助 (翻訳), 池田 祐子 (翻訳),三元社,2015
『バウハウス (コンパクトミディ・シリーズ)』,マグダレーナ・ドロステ(著),2002
コメントをお書きください